「人のお役に立たなければ」「誰かの役に立ちたい」と思い続けている人に気付いて欲しいこと 自己犠牲になってませんか?
カウンセリングと聞くと
人との関わりがうまく取れず心が疲れきっちゃった人や
心や弱りきってしまった人が相談する場所という思ってしまっている人を多くみます。
でも、そうではなくて、
日常の些細なイラっと、モヤっとした部分を相談してもらえると、
誰しも少なくとも持っている
固定観念(ここからは思い込み、または信じ込みと表現していきます)や
セルフイメージに気付き、
「うわっ、やめよ!」と意識してもらうことで、
停滞していた空気が、す〜っと流れていくということが当たり前に起きます。
こんな偉そうに語っているわたしも、
「あ、まただ」、なんてことがあるのが、無意識のすごいところで、
「麗子さんもですか?」なんてよく聞かれるのですが、
そりゃ、あります。
ニュースを見たり、
人から言われたりで、「へ〜、そうなんだ」と思った瞬間に
いとも簡単に思い込みは出来上がりますから。
脳の構造は、生きていくのために、安心安全を優先に動きます。
ある程度ルールごと、決まり事があった方が、
パターン化することで危険回避できるし、他の解釈を入れなくていいから楽なのです。
脳は、自分が思ったこと、感じたことに合わせ、
(凸凹がフィットした形がたくさん脳に浮かんでいるのをイメージしてみてくださいね)
一つの形を作り、
そこに当てはまらないものは、横へスーッと流していきます。
気にしているものは、凸凹がキャッチして捕まえるので、
そこにピタッと合う情報、経験を磁石で吸い付くようにペタッ、ペタッと重ねていきます。
だから、自分は正しいという思いに執着をしていくようになっていきます。
「なんか生きにくい」「なんかうまくいかない」
「辛いな、苦しいな」と常に感じている人は、
脳の中に、
この凸凹型がたくさんあり、これが正しいと自覚なく信じ込んでしまっているからなのです。
(社会全体は法律で守っているから統一が取れ、安心とは言え、
それさえも踏み外してしまうのは、そもそも人は弱いから、
そう言ったルールが必要なのかもしれません。)
カウンセリングとは、
ひとりでは、全く気付けないそう言った自分の中にある正しさを
「あなたが正しいと思っていることは、ほんと?」と崩していくためにあります。
だから、特別な人が受けるものではなく、
どんな人にも気軽に受けてもらいたいものなのです。
とっても前説が長くなりましたが、
自分の信じてる正しさの中で、
「一見とっても正しいのでしょうが、矛盾してませんか?」とよく感じるのが、
今回お話させていただこうと思った、
「人の役に立ちたい」「生まれてきたのだから人の役に立ちたい」という凸凹フィットです。
「人のお役に立たなければ」が自己犠牲へとなってしまう道
「人の役に立ちたい」
このこと自体とても尊い思いだと思います。
人は、お役に立つことで喜びを感じますし、
人のお役に立つことが「お仕事=ビジネス」になっていきます。
ただ、
言葉の中に微妙なざわつき感を感じるのは、
「生まれたからには、人の役に立たなきゃ、誰かの役に立ちたいんです」
が口癖になってしまっている人です。
ん?なんで「ねばならない」になる?
「ねばならない」とは、
心から思わず自然とやってしまう状態ではなく、
意識して、義務としてやろうとすると出てくる言葉です。
思うに、女性にも男性にも母性がありますよね。
人間の存在そのものが、誰かに尽くせるような愛がすでにあって、
自然と相手に与えている瞬間瞬間があると思うのです。
思わず、身体が反応して助けちゃうとか。
もちろん、相手が喜んでくれる姿を見るのは嬉しいです。
嬉しいですけど、
「やらなきゃ」と言った義務の意識が積み重なってしまうと
相手からそれに相応しい反応がもらえないと、
だんだんと
「やってあげてるのに」という自己犠牲という形に変わってしまうのですね。
すると自分がへとへとになって、身体の不調が出てきてしまいます。
恋愛で例えるとよくいう「尽くしすぎてダメンズ」を作る系。
人は基本怠け者なので、
尽くされていると、
どんどんやってくれるならやってもらえばいい、
頼めばいい、と「面倒くさくない」方向へ流されていってしまいます。
つまりは「共依存」
良かれと思ってやっていることでも、
自立、その人がその人の人生を自分で歩くのを妨げていってしまうのです。
「共依存」は、親子関係、夫婦関係も当然ながらそうなります。
なんやかんや文句だけ言って、
誰かに頼って人生を送るのというのは楽なのです。
尽くしすぎてしまう人は、
自分が本当は尽くされたい、このように愛されたい気持ちの裏返しなのです。
「ねばならない」の奥にあるセルフイメージとは
カウンセリングでは、
先ほどの凸凹フィットにヒビを入れることと、
凸凹フィットで隠れてしまった、その人の奥の本当の思いに気付きに行ってもらいます。
「ねばならない」の奥にはどんな思いが隠されている??と。
先日お話しさせていただいた方も、
じっとしていると自分は、なんか落ち着かなくて罪悪感あって、、
それにわたしは〇〇がないので、、、
(プライバシーのために〇〇でごめんなさい)
だから、自分にできることはなんだろう?
どんなお役目だろうと思った時に、人の役に立たなきゃ、って。
目の前の本当に苦しそうに悩んでいる人に、そのままでいいのよ、とわかってほしいんです!
はい、ここでストップ。どう感じましたか?
自分のことは自分が一番わからないものです。
目の前の人を助けたい気持ちも、よくわかりますし、
困っている人を見たら、なんとかしてあげたい気持ちもよ〜〜くわかります。
これのどこがおかしいんだろう?って思った方もいらっしゃるかもしれません。
でも、矛盾があります。
それでは、役に立っていないと感じる時の自分を自分でどう思いますか?
こちらをご覧になってくださっている方も
ちょっと考えてみてくださいね。
どんな言葉が出てきましたか?
そこに出てきたのが、あなたが思っている無意識の自分です。
「〇〇がないので、、、」
=〇〇がないのは良くないと思っているので、
それを埋めようと意識が働いてしまっているのです。
「人のお役に立たなければ」「誰かの役に立ちたい」と考えている人に気付いて欲しいこと
「こんな風に辛くて困っている人がいるから、どうしても役に立ちたくて」
「わかって欲しくて」
その思いを否定するつもりはありません。
もちろん、
本当に真剣に相手のためになんとかしてあげたいと考えていると思います。
ただ、その奥に、
誰かの役に立つから、
といったズレがあると、自己犠牲に傾いてしまいます。
「承認欲求」自体、悪いものではないですし、
わたしも人から喜んでもらえると、とても嬉しいし、
ある程度承認欲求はあってもいいと思ってます。
ただ、重要なのは、
自分の存在そのものが価値あると認識していない状態で行なってしまうと、、、、
「世話をする人」がいるから、「世話をされる人」がいるように、
「助けたい人」であり続けると、
「助けてもらいたい!」と依存する人を創り出してしまうのです。
そして、さらにここがもっと重要です。
「自分に価値がない」と思って、それを克服してない人が、
どうやって、
目の前の人に、「あなたはそのままで価値があるんですよ」ということを
わからせてあげることができるのでしょうか?
あなたが価値ある人になりたい気持ちを埋めるために、
その人の命や人生があるわけではないのです。
「人のお役に立たなければ」「誰かの役に立ちたい」と考えている人がまず先にやって欲しいこと
せっかくの優しい想いを
利己的な考えや、自己犠牲に変わっていってしまわないように、
よかったら、こんなことを気をつけてみてください。
1)目の前の現実に気付く
今の自分の現状に気付いてみましょう。
自分の目の前の人との人間関係は、クリアになっていますか?
職場の人間関係、夫婦関係、親子関係、問題点はありませんか?
何か隠している思いはありますか?
そこで満たされていないと、
無意識で、つい別な形で、心を満たそうとしてしまいます。
愛情深い人ほど、物欲ではなく、人で埋めようとしがちです。
家族は人生の縮図です。
目の前の人との問題をクリアして、
少し距離ある人との人間関係も築くことができます。
もし、向き合うことから避けている現実があれば、みてみないふりをしている関係性があれば、
しっかり目を向けて、問題をクリアにしていきましょう。
2)自分の内側にある前提に気付く
誰かの言葉で、自分の生き方を選んでませんか?
「言葉」をまるでマニュアルのように、
正しいあり方としてインプットしていないでしょうか。
私たちは、自分で体験して、納得したもの腹落ちしているものしか
本当の理解というものができません。
どんどん体感していくということが必要です。
「役に立たなきゃ」と意識しているうちは、
反対側の「役に立ってない自分」を脳の中のイメージにしてしまっています。
何もしてない自分は価値がない、愛されない、
だから、役に立たなきゃ、と頑張ってしまいます。
まず先に自分が自分の存在を認めてあげるところから始めましょう。
3)繰り返している習慣に気付く
そんな人は特に、頑張って尽くしてしまいがち。
ずっと頑張ることが無意識のクセになっているので、やめられません。
自分ではあんまり頑張っている感覚がなくても、
期待したものが相手から返ってこなくて怒りや悲しさが湧いてきた時は、
欠乏サインが出ている証拠です。
相手に尽くすよりも、先に自分を悦びで満たしてあげましょう。
最後に
人とお話をするたびに、
人生とは多種多様で、兄弟姉妹といえど、同じ道を歩んできた人はなく、
どんなに同じ環境や状況であっても、
その人が乗り越えようとしている課題は、全く違うものだな〜といつも感じます。
カウンセリングする側は、自分の中に偏見が一切ないこと。
これを指導者から教えていただきました。
「この人はかわいそう」と決めてしまえば、
その人は「かわいそうな人」を演じてしまいます。
「この人を助けなきゃ」と願えば、
その方は、「助てもらう人」であり続けます。
皆、その人の人生に命を使うために生まれてきていて、
その人の課題を乗り越えるために、今、ここにいるということを
本当に忘れてはいけないのです。
自分の人生を全て受け入れ、信頼することができれば、
相手の人の人生も信頼できます。
たとえ今、辛い渦中にいても、きっとこの人は乗り越えられると信じることにつながっていきます。
このような想いなら、
共依存でも自己犠牲でもなく、共栄共存になると思いませんか?
考え方ひとつで人生は変わっていきます。
ぜひ、素敵な熱い人生を一緒に歩んでいきましょう。
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